東洋の海上王、弥太郎と資本主義の父、渋沢
渋沢栄一と弥太郎
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11 年2月13日(1840年3月16日)- 昭和6年(1931年)11月11日)日本の資本主義の父と呼ばれる
渋沢栄一と岩崎弥太郎は経営の考え方で大きな衝突をすることになります。
当時三菱商会を運営していた岩崎弥太郎は政府と今でいうインサイダー取引を行うなどして巨額の利益を得てきました。また、政府の軍事輸送を独占していました。
明治政府の大きな力になっていたことは事実ですが、他の海運業を行いたい業者にとっては嫌な存在となりました。
明治14年(1881年)に大隈重信が失脚すると弥太郎は大きな後援者を失い、翌明治15年7月には、三井財閥などの反三菱財閥勢力が投資し合い「共同運輸会社」を設立し弥太郎の三菱紹介に対抗したのです。三菱と共同運輸との海運業の争いはは2年間続き、激しいダンピングの結果運賃が競争開始以前の10分の1になるほどでした。この争いのきっかけを作ったといわれる事件が明治11年に起きています。
岩崎弥太郎VS渋沢栄一 経営理念で口論
明治11年(1878年)8月に隅田川の屋形船の上で岩崎弥太郎と渋沢栄一が言い争うことになりました。主催者は岩崎弥太郎、主賓は渋沢栄一でした。
天下論など論じていたときは良いムードだったそうですが、経営論に話がおよび口論になりました。
岩崎弥太郎は社長の「独裁権限」と「リスクの判断」で経営すべきとの信念で会社経営をしていました。一方、渋沢栄一は多くの人の資本(合本主義)と知恵を結集するのが「近代経営」であるという考えで経営していたのです。明治を代表する実業家である岩崎弥太郎と渋沢栄一ですが、水と油のような真逆の経営理念を持っていたのです。
弥太郎は「会社の形はしているが、自分の一家の家業である。利益は社長の一族が得るもの」と言い放ち、渋沢は「皆で経営し、私利私欲を肥やさず社会に還元すべきだ」というので口論となりました。弥太郎にとっては渋沢の意見は経営がダメになる、甘い考えのように感じられたのかもしれません。
渋沢栄一はフランスでいち早く資本主義を学び、日本に持ち込んだ人物です。また、経営の利益と道徳が並び立つとの持論を持ち、公共の益を考える思想がありました。
渋沢栄一にとっては岩崎弥太郎の考え方が許せなかったのかもしれません。口論は渋沢から始まりました。しかし岩崎弥太郎は渋沢の考え「合本主義(多数の株主による会社の設立のこと)」「経済道徳合一主義」を理解せず、「人間をダメにする思想」と反発し、また渋沢も、理解しない弥太郎を冷ややかに見たことで2人の間に大きな溝が出来てしまいました。渋沢は当時の日記に「岩崎弥太郎とはプライベートでは付き合えてても、仕事は一緒に出来ない」という主旨の文を残しています。
その後、渋沢栄一の日本国郵便蒸気船会社は、三菱商会に追い詰められ政府に解散させられてしまいます。しかし、明治14年北海道開拓史官有物払い下げ事件で三菱の後ろ盾であった大隈重信が失脚し、その隙を逃さず渋沢栄一は、海運業を独占していた三菱を打倒すべく、三井財閥や井上馨らに働きかけ、合本主義による「共同運輸会社」を創立して前述の争いを2年間続ける事になります。
争いのさなか、岩崎弥太郎は胃癌により50歳という若さでこの世を去り、その後共同運輸会社は三菱と合同して、「日本郵船株式会社」を設立する事になります。
